礼拝説教要約

玉川キリスト教会聖日礼拝説教(抄録)(2019年1月13日)

聖書箇所:ヨシュア記15章

説教題:上の泉と下の泉

今年こそ、聖書通読をやってみよう、と思われた方、ぜひ、チャレンジして、たとえ中断があったとしても、継続していただきたいと思います。聖書通読の重要性は、それによって自然と養われるものがあることです。習慣は良きにつけ、悪しきにつけ恐ろしいものです。良き習慣がもたらす良き結果があります。

クリスチャンとして成長することによって起こる一番大きな変化は「変わりたい」という欲求です。それまで、罪の温床の中で、なんとも思わないでいたことが、気になってしょうがない。こんな自分に変わりたい。自分を充たすだけの自己中な人生など愛想が尽きたという思いになるのです。しかし、現実は変わらない自分がいます。ローマ7章にあるパウロの叫び「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っている」はまさに、霊的に成長した者の叫びと言うべきでしょう。そこで、自分はダメなんだと諦めてしまうか、いや、自分に力はないが、神に寄りすがって神の恵みに与りたいと願い続けるかが分かれ道です。成長する人は、あくまでも神の恵みに寄りすがり続ける、神の恵みの業を期待し、神の御言葉に留まり、神のことばを喜びとし耳を傾け続ける人です。そこに雨雫が、硬い石を砕くごとくの奇跡が起きてくる。こう考えるのが、玉川教会らしきことなのです。私たちは律法学者のように、行動を自制することに躍起になることはありません。むしろ、神の期待に応えられない自分を神の膝元に向かわせ、只ひたすら傾聴したマリヤのように神と良き時を過ごすことを大事にします。そこに、目に見えず自然に養われるものがあると考えるからです(マルコ4:27)。念頭にあたり、玉川らしさを確認したいところでしょう。

1.カレブとユダ族の戦い

さて、昨日読んだヨシュア記14章に続き、15章には、ユダ族の相続地の境界(15:1-12)と、境界に属する、占領した町々(15:20-62)が記されています。南部の荒野から始まり、西、東、北、それぞれの境界が細かに記されますが、それは広大な領地です。12部族の中では、東ヨルダンと西ヨルダンの二カ所を相続したマナセに次ぐ大きさの土地です。占領した町の数も約110以上です。信仰の人カレブとカレブを支えたユダ部族が、主に従い通した結果と言うべきでしょう。そのような意味では、教会全体が一丸となって、神の約束を信じ、神の約束に立って、教会を建て上げていくなら、そこにどんな祝福が起こるだろうか、と考えたいところです。教会の成長は、教会全体の戦いです。教会を自分の慰めの場、自分のよりどころとするのはよいでしょう。しかしもしそれだけで終わっているとしたら、寂しい限りです。今年は、奉仕においても、また献げることにおいても、昨年の自分とは違う一歩進んだ、共に教会を建てあげる志を持った歩みにしたいものです。それによって、信仰の喜びもさらに深く増し加わるのですから。

2.アクサの娘のエピソード

ところで、ここに挿入されたカレブの娘アクサの物語に注目しておきましょう。このエピソードは士師記1章に再録されています。そして士師記3章には、オテニエルは、ヨシュアの死後、第一の士師としてイスラエルを救出し、約束の地カナンでの40年間の平和を導いた人物として記録されています(8-11節)。

このオテニエル、アクサを妻としてもらうことになりましたが、アクサは、オテニエルに、自分の父に畑を求めるように、しきりに促しています。古代イスラエルにおいては、妻となる女性が持参金を求める習慣がありましたから、それは自然な要求でした。ただ、カレブの娘アクサの本当の願いは、畑地ではなく泉でした。カレブやユダ部族が相続した土地は、広大とはいえ、ユダの荒野と呼ばれたところです。そこは今でも、荒涼とした岩だらけの荒れ地です。その地で生き延びるのみならず繁栄するためには、泉が必要とされたのです。カレブもそのことは重々承知だったのでしょう。カレブは、娘の要求に対して、上の泉と下の泉、つまり倍の持参金を与えています。カレブは、信仰の士師オテニエルに相応しい、倍の祝福を与えることをよしとしたのです。それは、主に従う者への象徴的なエピソードです。

私たちの人生は荒野に、何事かを建てあげるようなものかもしれません。しかし神はこれからの反映のために、と上の泉と下の泉を下さる。それは具体的にイエスご自身です。イエスは「私を信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:38)と言いました。今の、混とんとした世の中において、最も宝とされるものは、命の泉のごとくと称される人でしょう。慰めの人、光の人、愛の人、塩気のある人、神は、私たちを世の上の泉、下の泉とされるのです。

結語

私たちの宣教は、教会にいかにして引き込むかを考え易いものですが、大切なのは、与えられた土地をことごとく占領すること、散らされた場で、世の人々の泉として喜ばれることです。宣教は外に出て行く戦いです。心に抱くイエスをこそ、世に指し示し、その恵みの泉に与らせていく戦いなのです(玉川キリスト教会牧師福井誠)。

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