Q&A

玉川キリスト教会・キリスト教・宗教について

A-01. 玉川キリスト教会はどのようなグループに所属していますか?

玉川キリスト教会は、「日本バプテスト教会連合」という、バプテスト系の団体に所属しています。
日本バプテスト教会連合は、大きく、東京地区、東海地区、中紀・紀南地区、関西地区と四つの地区に分かれ、それぞれ伝道協力を進めています。玉川キリスト教会は東京地区の諸教会のサポートで開拓された教会です。

A-02. 教会外に色々な活動団体があるようですが、どのような関係になっていますか?

日本のキリスト教界には、キリスト者学生会(KGK)、キャンパスクルセード(CCC)、ナビゲーター、VIP、アンバサダーズなどと様々な団体活動があります。
これらは、教会そのものではなく、あくまでも各個教会の働きを助ける二次的な活動団体であることから、「パラチャーチ活動」と呼ばれています。
今日、たとえば小・中学生を対象とする活動として、CSKがあります。
高校生を対象とするものとして、hi-b.a.が、大学生を対象とするものとしてKGK、CCC、ナビゲーターがあります。
社会人を対象とするものとして、VIPやアンバサダーズなどの働きがあります。
また各団体が季節的に超教派的に行う、松原湖バイブルキャンプ、奥多摩福音キャンプなどの活動もあります。
このほかに一時的な活動や信仰覚醒的な運動として、ジョイフル・キャンプやビリーグラハム大会、リバイバル・クルセードなど様々なものがあります。

A-03. パラチャーチ活動はどのような活動でも出席してもよいのでしょうか?

玉川キリスト教会では、これらの団体活動への参加を自由に認めています。また、参加した場合には、祈祷会や礼拝で受けた恵みを分かち合ってもらって、互いの信仰の励ましとしています。もちろん、必ず参加しなくてはいけない、ということでもないので、お誘いを受けた場合は、個人の霊的な必要を考えて、参加してみてください。

A-04. カトリックとプロテスタントの違いを教えてください。

カトリックとプロテスタントの違いは、歴史的に理解するのが一番よいと思われます。
16世紀に宗教改革が起こり、マルチン・ルターやカルヴァン等によって宗教改革が行われました。その運動が後にプロテスタント教会の流れを作ります。

そもそも、マルチン・ルターが大胆な宗教改革運動に及んだきっかけは、カトリック教会が発行する免罪符への疑問にあったと言われます。カトリック教会では人間は死後、「煉獄」に行くと教えます。そこで苦しみを受けて罪滅ぼしをして、天国に行くというわけです。ところが、生きている間に功徳を積み上げると、つまり免罪符を買うと、罪滅ぼしが免除されると教えたわけです。宗教改革者のマルチン・ルターが問題にしたのはその点です。マルチン・ルターは、聖書が教える救い、つまり天国行きの約束は、イエス・キリストの十字架を自身の罪の赦しのためであると純粋に信じることによって与えられるものだ、ただ信仰による、神の恵みによるものだと主張しました。免罪符の購入によって天国へ行きやすくなるというような教えは聖書に基づいたものではないというわけです。

さらにマルチン・ルターは、そのようなカトリック教会の煉獄の教えや、マリヤを神の母として崇拝させる教えなどが、そもそもどこから出てきたものであるかを問題にしました。そしてカトリック教会が、信仰の教理の土台を「聖書」ではなく「教皇」に置いているあり方を問題にしたわけです。マルチン・ルターが異議を唱えたのは、カトリック教会の世俗化というような道徳的な問題ではありません。むしろ、キリスト教信仰の根本的なあり方、つまり信仰のみによる救い、聖書のみを信仰の土台とするという点だったのです。

このように、カトリック教会とプロテスタント教会では、信仰理解、聖書理解に根本的な違いがあり、単なる組織的、制度的な違いではありません。

A-05. 他宗教との関わりで、キリスト教が唯一絶対であると言えるのでしょうか?

このような問題は、宗教学での議論を紹介するとわかりやすいでしょう。宗教学では、宗教の本質を探究する学問ですが、これによると、「宗教とは人間の諸問題に対する究極的な解決方法と信じられている文化現象である(岸本英夫『宗教学』より)」と定義されています。
つまり、キリスト教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ、それは人生の諸問題について、様々な示唆に富んだ知恵と救いを提供している点では変わりがないのです。ですから、どんな宗教も、偏見を捨てて耳を傾けてみるならば、いろいろと人生について役立つことを語っているはずです。

ところが、宗教には共通性がありながらも、決定的に違う部分もあるわけです。キリスト教のオリジナリティは、十字架による神との和解という概念です。また終末史的な歴史観も独特のものです。今日の多くの新興宗教は、キリスト教の終末観をねじ曲げて取り入れているように思われますし、歴史的に遡りますと、仏教もまた、景教(中国に伝えられたキリスト教)の影響を受けて、浄土信仰を持つようになったと言われます。

いろいろな宗教がありながらも、神が人間を愛する証として、人間のために、ひとり子であるイエス・キリストを十字架につけられたこと、またその犠牲によって人間の罪が赦され、天国行きが保証され、また現世において人間が生きるべき真の愛のあり方がわかったというお話は、キリスト教以外に見いだすことができません。そしてこのような救いの教えは、キリスト教において唯一独特な救済論です。
つまり、キリスト教は功徳ではなく、キリストの十字架の犠牲を信頼することによってのみ救われると教えるわけですから、貧者にも金持ちにも、知恵ある者にも知恵なき者にも、万人に開かれた、恵みに富んだ救いを伝えていると言えるでしょう。

教会の集会や行事、礼典、組織について

B-01. 教会にはどのような集会がありますか?

現在、玉川キリスト教会では、礼拝、聖書研究祈祷会、教会学校などの集会が開かれています。それぞれ、集会の特色を覚えて出席することが大切です。礼拝は、神様を仰ぎ、拝する集まりです。聖書研究祈祷会は、クリスチャンが聖書を読み深め、祈り合う場です。もちろん教会に来始めた方々も参加するとよいでしょう。教会学校は、教育の場であり、聖書を学び合う場です。

B-02. 礼拝についてもう少し詳しく教えてください。

日本人にとって礼拝は、馴染みにくいものです。日本人は礼拝を宗教儀式としてとらえがちです。日本人の無神論的な感覚のためです。このように神様の存在を抜きにした宗教行為は、目に見える形式に拘りがちです。
けれども、聖書では、礼拝は「霊とまことをもって行うものである(ヨハネ4:23)」と教えられているように、それは、皆と共に神とよき時を過ごすこと、そのものに他なりません。そこがわかれば、自然に、一つ一つのプログラムをどのようになせばよいかがわかるはずです。

礼拝には三つの要素があります。第一に天地創造の神を賛美すること。第二に神のみことばに傾聴すること。第三にみことばに応答し(十字架の恵みと祝福に対して)自身をささげることです。

礼拝は、まず<前奏>と<招詞(しょうし)>から始まります。<招詞>は、神様の招きのことばです。自身も礼拝に招かれていることを覚える時です。そこで、<前奏>の時、私たちは、天地万物をお造りになった神様の御前に心を低くし、畏れをもって出る心ぞなえをします。その心ぞなえを持って天地創造の神様を賛美するわけです。

次に、神様のみことばに耳を傾けます。<聖書朗読>と<説教>において、私たちは、自分自身に対する神様のみことばをいただくのです。
最後に、神様のみことばへの応答として<賛美>、<献金>、<祈り>をささげます。説教の中心は常に、キリストの救いにあるわけですから、新たな一週の初めに、キリストの十字架にある罪の赦しと聖めの祝福を覚え、また、新しい決意を新しい歌に託してささげるわけです。

なお<祝祷(しゅくとう)>は、このような決意を持った人々に対する、神様からの祝福と自分が置かれた社会の場への派遣のことばです。

B-03. そのような礼拝をどのようにささげるべきですか

1) 礼拝は、前奏に始まり祝祷に終わります。できるだけ、礼拝が始まる10分前には着席し、礼拝の祝福のために祈り備えるようにしましょう。

2) 礼拝に招いてくださっているのは、神様ご自身です。祝福してくださるのは神様です。礼拝において神様が祝福してくださるという信仰をもって出席しましょう。

3) 礼拝の中心は説教ではなく、聖書朗読です。説教は講演ではありません。それは、聖書の翻訳にたとえられます。ですから、聖書が忠実に語られている説教は皆よい説教と言えます。大切なのは、語りかけられる聖書のことばに応答する心をもって聴くことです。

4) ですから、神様のことばを受けて、礼拝を終えて、教会から出ていった後の生活が、クリスチャンとして重要なものです。神様のことばを講壇に置き去りにして帰ってはいけません。受けた神様のことばを一週の生活に反映させるようにいたしましょう。一週間は礼拝によって始まるわけです。

5) なお玉川キリスト教会の説教は、教育的な配慮のために、前半は知識的な内容、後半は実践的な内容というスタイルを取っています。また教会でなされる説教は、たとえて言えば、母親が用意する三度の「食事」、他集会で聞く説教は「外食」と心得ましょう。

6) 献金は、クリスチャンの献身の心を現すものです。牧師の説教に対する謝礼でも、募金でも、寄付でも、お賽銭でもありません。実際神様は、天地万物の支配者であり、一切を自身の手中としておられる方ですから、献物を必要とされるようなお方ではありません(使徒17:24,25) ですから献金をささげる意味は、第一に、私たちが世と世のものに執着せず、何よりも目に見えぬ神様を愛し信頼している姿勢を形にするところにあります。(Ⅰヨハネ 2:15,16)第二に、福音宣教のための多くの必要を覚えて捧げるという、世の人々に対する愛を形にしているのです(ローマ15:26、Ⅰヨハネ 3:17)。
ですから惜しむ心ではなく、自ら祈り導かれたものをあらかじめ用意して捧げることが大切です。信仰に基づく行為ですから、まだ神様を信じていらっしゃらない方は、献金袋をそのままお返ししてくださってもかまいません。

7) 週報は、その日の礼拝プログラムを記載している他、その週の祈りの課題などが記載されています。また次週の説教箇所の予告などもありますので、あらかじめ読んでくると礼拝に向けた十分な備えができます。
なお、暗唱聖句は、必要に応じて進んで覚えるようにしてください。

B-04. 礼拝中子どもが騒ぎますので、出にくいのですが。

礼拝の前に次のように言って聞かせましょう。「礼拝は、神様に賛美歌を歌ったり、お祈りをしたり、聖書のお話を聞いたりして、神様を礼拝する場なの。あなたも一緒に参加しましょうね。」

ただ、実際に小さな子どもの場合、一度や二度このように言ったぐらいでは、なかなか親が期待しているように静かにしてくれないものです。しかし、子どもが礼拝に出て、静かに過ごせるようになるためには時間がかかります。子どもの年齢や性質によっては、1年、2年とかかるかもしれません。けれども気落ちせず、叱りつけたりせず、忍耐強く、礼拝の前に必ずよく言って聞かせて、礼拝の場を次第にわかってもらうことが大切です。1度や2度、静かに礼拝の場にいられないということで、あまり気にせず、何度でも根気よく、家庭と礼拝の場が区別できるようになるのを待ちましょう。2、3年後には必ず子どもが変わっていくことに実感を持てるようになるはずです。

玉川の教会では、こういう「育児戦争」の最中にあるヤングファミリーに対して理解を示し、教会にいる子どもはみな、「私の子ども」という意識を持つように促しています。ですから、一緒になって、注意を促すことがあるかもしれません。ただ子どもが注意されることで、自分の子育てのまずさを指摘されていると感じる方もおられるようですが、子どものあり方と親のあり方は区別されなくてはなりません。
礼拝の場で静かにするというのは、子どもが、場を心得るという社会適応を学ぶ大切な機会でもありますから、あくまでも子どもの問題として、教会全体で関わっていくことが大切かと思います。実際、子育てに関わる手が多くなればなるほど、子どもは社会性を広く身に着けることにもなると思われます。子育てで相談したいこと、主にある兄弟姉妹に協力して欲しいことがあれば、遠慮なく言ってくださるとよいでしょう。

そして子どもを静かにさせるには色々と工夫が必要です。塗り絵、お気に入りの絵本、新しい絵本、音の出ないおもちゃなどを用意することも大切です。また、小さな子どもの場合、近くに同じような年齢の子どもがいると、どうしてもそちらに気が向いて、おしゃべりしたくなったり、動きたくなったりします。子どもを持つ親は、礼拝の時には、できるだけ互いに離れて座るのも静かにさせる知恵だと言えましょう。

さらに、子どもよりも大人の方が妨げになる場合があります。近くの子どもに話しかけたり、あやしたり、気を引こうとしたりして、子どもの注意力の散漫さを助長することのないように気をつけましょう。

なお子どもによっては、発達上のハンディキャップがあって、たとえば賛美歌の際に奇声を発するというような子もいたりします。けれども、これは騒いでいるというよりは、会衆賛美が楽しくて、その子どもなりに参加していると理解すべきです。こういう場合には、共に神様を賛美することを分かち合えばよいでしょう。

B-05. 礼拝は毎週出席しなければなりませんか?

日曜日休日制度が日本に導入されたのは、明治開国期であったと言われます。礼拝のために毎週日曜日、仕事を休む外国人に、日本人も仕事のリズムを合わせざるを得なかったというわけです。

ともあれ、日曜日を<休日>とするその考え方の基本は、一つには、人間が休息を必要とする存在だからです。ことに、旧約聖書の教えでは、弱い立場にある者を思いやって休むようにと勧められています。上司が働いていては、部下は休むことができません。自ら率先して休息を取り、部下にも適切な休息を与えるのが上司の大切な勤めというわけです。

新約聖書では、この<休日>に、さらに積極的な<祝日>としての意味を加えています。つまり、キリストが日曜日に復活されましたので、神様がキリストを復活させられた偉大な御業を覚える、お祝いの日であるということです。この日、私たちは、神の宮に集まり、キリストを復活させた神の力を覚え、そこに新たな希望と力を得るのです。

以上の教えに基づいて、教会では日曜日は礼拝に出席することが勧められます。
ただし、日本の社会事情では、やむを得ず礼拝を休まざるを得ない場合もあることでしょう。実際、日曜出勤を余儀なくされる職種があります。あるいは、病気や障害などで毎度の礼拝出席が困難な場合もあります。このような場合には、教会の慣行に従うことができないからといって、自分を責めるのではなく、牧師に相談してください。勤務体制の都合で、継続的な日曜礼拝出席が難しい時には、ケース・バイ・ケースに最善の祝福の方法を共に考えてまいりましょう。

また、つい礼拝を休んでしまった場合には、何とも連絡し難いように思われることがあるでしょうが、連絡してくださったほうが、牧師としてはうれしいのです。牧師は、新たな一週に守りと導きがあるようにお祈りします。

B-06. その他の集会はどうですか?

信仰は個人の志が何よりも尊重されます。教会に義務と呼ぶべきものは何もありません。たとえば道場のイメージを考えてみてください。そこでは、個人稽古をしたり、組稽古をしたり、師範に相手をしてもらったりと、積極的に自分の業が磨かれます。信仰も同じです。祈りにおいても、また聖書理解においても習熟する機会が、聖書研究祈祷会または教会学校という形で提供されており、さらには、牧師に個人的にお願いして、自身の霊的成長に精進することが期待されます。

また、信仰は関係によって育まれるものでもあります。誰でも人間関係のスキルを、教本で磨くようなことはしないでしょう。愛を基調とする信仰も、同じです。愛は人間関係の中でこそ磨かれるものです。となれば、積極的に集会に参加し、与え、とりなす祈りを実践することで、信仰は大いに飛躍されることにもなるのです。

「ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル人への手紙10:25)

信仰は交わりの中でこそ育まれます!

B-07. 洗礼式(バプテスマ式)とは何ですか?

洗礼は、聖書がイエス・キリストについて語られていることについて、受け入れたことを、自他共に認められる形で証する行為です。

三つの意味があります(ローマ6:1-11)。一つはお葬式。古い自分を葬り去る埋葬式です。二つ目には復活式。自分が新しい自分に、神の力によって生まれたことを受け入れる時です。三つ目には結婚式。これからの人生を目に見えない神様と共に、歩んでゆく決断をする時です。

このような意味を理解し、信仰をもって、洗礼を受けたいと思った方は、牧師に相談してください。牧師がお勧めすることもあるかもしれませんが、信仰は個人の意志によるものですから、自から進んで受洗の意志を伝えるようにしましょう。

B-08. 聖餐式とは何ですか?

聖餐式は、キリストの十字架によって罪赦されている確信を繰り返し深め、主の福音を告げ知らせる決意を新たにするためになされるものです。このように信仰に基づいて行われる行為ですから、まだ信仰を持っていない方々には、お勧めしていません。

そこで、周りの人々が皆、聖餐式を受けているようなときに、自分ばかり受けない状況があると、居心地の悪い思いをしたり、差別されているような気持ちになったりすることもあるかもしれません。しかし、そのようなときには、静かに目をつぶって、キリストの十字架の意味について考え、キリストの救いへと導かれるようにお祈りする時とされることをお勧めいたします。

また、信仰を持ち、すでに受洗を決意された方にも、自身の信仰の決心を吟味する時として、受洗までは聖餐式をお勧めしていません。

B-09. 愛餐会とは何ですか?

愛餐会は、クリスチャンが、日々神様から受けた恵みや兄弟から受けた励まし・ささえを分かち合い、感謝の意を表す時です。また、普段は礼拝という形で教会に集う兄弟姉妹たちが、食事を共にし、礼拝と同じように神様を中心とした交わりを楽しむのです。

どのような社会でも、すでに出来上がった集団の雰囲気にとけ込むには、時間がかかることがあります。知っている人が誰もいなかったり、自分と同性、同世代の人がいなかったりすると、なおさらそうでしょうし、また自分が内気であると感じている人にとっても、とけ込みにくさを感じたりすることがあるでしょう。

けれども、神の家族としてあるがままに集える場が愛餐会の時なのです。馴染みにくいと思っている時には、牧師に率直にご相談ください。悪気はないのですが、つい気づかないでいることもあります。家族として新しい参加者の居場所を、確保してゆくことは、当然のことで、それによって愛餐会に一層の喜びを、増し加えることにもなるでしょう。愛餐会は、それぞれが一層力と励ましを受けることを目的とするのです。

B-10. 年間行事はどのようになっていますか?

日本人には、夏は盆、冬は正月という習慣があります。クリスチャンは、ある意味で新しい価値観に生きるわけですから、聖書中心の年間行事のあり方を考えるようになります。
ですから、3月~4月にイースター(復活祭)、5月~6月にペンテコステ、12月にクリスマスというのが一般のあり方です。教会によって、これに加えてプロテスタント教会の誕生を祝う宗教改革記念日(10月)、また旧約聖書の慣習である収穫祭(10月)を加えるところもあります。

1) イースター

イエス・キリストの復活をお祝いします。キリスト教の年間行事の中心とも言うべきものです。この1週間前より受難週(キリストの十字架での死を覚え、その恵みを感謝しつつ過ごす週)に入ります。

2) ペンテコステ

教会の誕生を記念し、お祝いします。また、昇天されたイエス様に代わって、目に見えない聖霊なる神様が遣わされたことを、記念する日でもあります。

3) クリスマス

イエス・キリストの誕生をお祝いします。一ヶ月前より、イエス・キリストの誕生を待ち望む、いわゆる「待降節(神がイエスという人となって、この世に来られたことを覚えて、感謝のうちに過ごす月)」に入ります。この期間にクリスマス・カードを交換する方もおります。

4) 教会総会

玉川キリスト教会は、会衆制の政治形態を採用した教会です。ですから、教会の運営、行事の予定については、教会員(当教会でバプテスマを受け会員となった者、および当教会への転入会者)全員の話し合いによって、決められてゆきます。年に一度、3月ごろ、教会員の総意が確かめられます。

B-11. 牧師はいつも何をしているのでしょうか。

キリスト教的な背景のない日本では、このような質問をよくいただきますので、牧師の仕事内容について少々説明します。

牧師の仕事は大きく、説教、牧会、教会形成の三つに分けることができます。牧師によって若干強調点の置き所が違いますが、玉川の教会では、これら三つを、次のように考えています。つまり説教は、礼拝もしくは諸集会にて、公に神のことばを語り伝える行為で、牧師は、その準備のために多くの時間を費やします。また、牧師はこのための専門的な訓練を受けています。聖書をギリシャ語、ヘブル語で読み、当時の地理的・文化的・民族的背景を押さえて現代に適用し、説明する訓練です。
次に牧会は、公に語り伝えた神のことばを一人一人に浸透させる行為です。礼拝後、あるいは、様々な機会に牧師は信徒とお話をする機会を設けます。そのようにして信徒一人一人が自分の信仰の成長を達成するように、聖書のみ言葉につなげる努力をしているのです。牧会は、カウンセリングとは違います。カウンセリングは、カウンセラーの専門的な技量により、来談者の心の問題を解決することですが、牧会は、同じ心の問題について、牧師も信徒も共に神のことばに耳を傾けるところに成立します。つまり信徒は牧師に相談しに個別の時間を持つことができますが、その時間は、牧師に問題を整理してもらったり解決したりする時間ではなく、牧師と共に、神のみことばに解決の知恵をいただく時間であるのです。
最後に、教会形成は、説教、牧会を通して、聖書の言葉に生きる信徒が、単に自分の問題の解決を超えて、教会を世の光、地の塩とさせていく、いわゆる宣教の教会となるために必要なことをすることです。そういう意味で、牧師の働きは、単に個人に関わるのみならず、教会と言う組織を導く働きでもあり、そのために多くの時間を割くことになります。聖書は、牧師について、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげる(エペソ4:12)」者であると説明しています。つまり、信徒一人一人を霊的に整えて、奉仕の働きへと促す、教会の必要のために神様ご自身が立ててくださった器であるというわけです。このように、聖書に基づいた教会政治・運営のあり方についても日々研究し、信徒の自由な活動に助言を与えることも牧師の大切な働きです。

B-12. 教会に出席するようになると、やはり、何か奉仕をしないといけませんか?

教会運営は、信徒が自らの賜物を積極的に活用し、進んでなすべきものとされています。というのも、奉仕は、信仰を持った方が、神と人を愛することの証としてなすものだからです。

そこで最も大切な奉仕は祈りです。つまり、神様の御業は、人間の努力や知恵によって勧められるのではなく、人間の神様の御業に対する信頼によってなされるからで(「イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです(ヨハネ6:29)。」)、信頼は祈りによって表されるからです。

この基本の上に、証の奉仕があります。一般には伝道と言われます。多くの人は、伝道というのは、キリスト教の教えを巧みに語って、信じさせることのように考えています。しかし、そうではありません。伝道というのは証することです。自分が見聞きしたこと、体験したことを証言することです。自分がキリストの十字架の元に罪の赦しがあることを知り、また神の子とされた祝福をよかったと思う。それを語るだけなのです。同じ信仰に導いてくださるのは、神様です。

このほか、教会での具体的な奉仕があります。礼拝でなされる奉仕、司会や奏楽、祈りなどがあります。また、礼拝準備のための、週報の作成や、会堂に椅子を並べるなどの準備や、教会学校で聖書研究のリードを取るなど、様々な奉仕があります。

けれどもいずれも信仰に基づく行為ですから、まだ信仰を持っていらっしゃらない場合は、遠慮してくださってかまわないのです。また、信仰を持ったばかりの方も、何をどのようにすべきか、教会の様子や、聖書の教えがある程度わかるようになることが大切という観点から、しばらくは、聖書の学びと祈りと証に専念していただいています。

なお、奉仕に優劣はありません。教える立場の奉仕をするようになったからといって偉くなったというわけではありません。それはこの世の優劣意識であって、教会では、一切不要のものです。どんな奉仕も尊いものであり、神と人を愛する証として、心を込めて行うものなのです。

<基本的な奉仕>
祈り
証し
献金

<賜物を活かした具体的な奉仕>
週報作成
チラシ作り
伝道会企画
愛餐会リーダー
賛美リーダー
奏楽
集会準備
教会学校教師 など

聖書やお祈りについて

C-01. 玉川キリスト教会では、どのような聖書を用いていますか?

玉川キリスト教会では、新改訳聖書を用いています。戦後の新しい福音派の教会は新改訳聖書を用いることが多く、私自身が新改訳聖書で育ったという単純な理由によります。もちろん、自分の好きな訳を用いても差し支えありません。ただし、礼拝では、説教の際に、新改訳聖書を用いて、聖書箇所を示すことがありますので、新改訳聖書を持参した方が便利な場合もあります。

なお、聖書は、訳の新しさ、正確さを考慮し、新改訳聖書もしくは新共同訳聖書を利用されることをお勧めいたします。以下、日本語の聖書を簡単にご説明します。

文語訳聖書

現在、あまり使われていませんが、年輩のクリスチャンの中には、この聖書を用いている方がおります。外国人宣教師によって初めて翻訳された、明治訳聖書の改訳(大正訳)とされています。

口語訳聖書

戦後、新かなづかいの採用とともに、新たな訳の聖書が必要とされ、初めて日本人の神学者のみで訳された労作です。NCC(日本基督協議会系)の教会が今なおこの訳の聖書を用いていますが、最近では新共同訳聖書に切り替わりつつあるようです。

新改訳聖書

1970年代、保守的な立場に立つ神学者たちの手で訳された聖書です。戦後にできた福音派系の新しい教会がこの聖書をよく用いています。この聖書は、直訳調で日本語としてこなれておらず読みにくいという指摘があります。しかし、ギリシャ語やヘブル語のテキストの状況を正確に表現しようとする努力が反映されたものと考えるべきでしょう。差別用語などが、そのまま残っているなどの問題もあって、現在、大がかりな改訂版が作成されています。

新共同訳聖書

1987年に出版された最も新しい訳の聖書です。プロテスタントの日本聖書協会とカトリック側委員会合同による翻訳のため、新共同訳という名がつきました。NCC系の教会はもちろん、最近ではJEA(日本福音同盟)系の福音派諸教会でも使用されるようになってきました。読みやすく、理解しやすい聖書として定評があります。しかし、読みやすいというのは、そこに翻訳者の解釈が反映されているということで、新改訳聖書の訳し方と方針が違うわけです。ですから、新改訳聖書と新共同訳聖書を読み比べてみますと、ところどころ訳の違いがあり、そこに原語テキストの解釈の違いを発見することでしょう。

リビングバイブル

翻訳の形式としては意訳に入ります。つまり、原語の意味を取って訳していますので、わかりやすいという定評があります。個人で聖書全体を理解し、読み進めたい時に利用すると便利です。なお、礼拝の司会者が用いる講壇聖書は新改訳を用いていますが、礼拝の参加者は、どの聖書でも自分の読みやすい聖書をお使いすることをお勧めしています。

C-02. 聖書をどのように読んだらよいでしょうか。

聖書を読む前には、まずよく祈ることです。そうすれば、神様が、心の目を開いて、聖書の意味を豊かに理解できるようにしてくださることでしょう。

また、謙虚になって、教えてもらうことが大切です。聖書は日本語に翻訳されており、誰もが読めるもので、簡単に理解できるようにも思われます。しかし実際には、書かれた背景、つまり民族も文化も時代も異なるものを読んでいるわけですから、やはり、ある程度学びを深めないと間違った理解をしてしまうこともあります。聖書を教えるように神様に立てられた、牧師に率直に学ぶことは大切です。どんな簡単なことと思われることでも、ためらわず聞いてください。

また、聖書を通読するために、パスタ―まことの聖書通読一日一生をお勧めします。また、登録を希望の方は、毎朝6時半頃にメールで配信されます。毎日聖書を読みながら、3年半で聖書全体を通読します。
パスタ―まことの聖書通読一日一生⇒http://thousandtimesbless.com/
聖書通読登録⇒information@tamachape.comまで「聖書通読希望」と明記してご連絡をください。

C-03. キリスト教の祈りについて教えてください。

お祈りは、神様と静かに交わり、神様の語りかけを受ける時です。日本人はお祈りと言いますと、神社で願掛けするようなイメージでとらえてしまいますが、それは、キリスト教の祈りとは異なるものです。もし、天地万物における、絶対的な主権者であられる方の御前に立っていることを自覚できるなら、私たちはそのような方に、こうして欲しい、ああして欲しいなどと、畏れもなく自分の欲望をぶちまけることなどできないはずです。むしろ、その方の御前に、ひざまずき、ひれ伏すことになることでしょう。

キリスト教の祈りは、この絶対的な神様の御前で口を開くことを自覚するところから始まります。ですから、キリスト教の祈りはまず、神様の偉大なる主権を覚えてその御前に静まるところから始まるのです。つまり、神様の御名を崇め、賛美し、謙りの心で静まることが祈りそのものなのです。また静まりますときに、神様のことばに耳を傾ける(聖書を読む)ことが大切であることに気づかされます。そして聖書を読みますときに、なすべき祈りがさらに導かれてゆくのです。

また実際的に祈る場合には、次のように祈りなさいと、イエス様が教えられた祈り「主の祈り」の骨格に従って、自分なりのことばで、また必要を具体的に取り上げて祈るとよいでしょう。

C-04. 「主の祈り」について教えてください。

主の祈りはまず、神様に対する呼びかけから始まります。この場合、イエス様は神様をお父様と呼びなさいと教えられました。神様は偉大なお方ですが、同時に私たちの父でもあるのです。親しみをもってお父様と呼んでよいのだと教えておられます。

そして大きく二つのことを祈ります。神様のためと人のための祈りです。神様のために二つのことを祈ります。それは神の御名が崇められるように。つまり神様のすばらしさが全世界で認められるようにという祈りです。また御国が来ますように。神様の支配される世界が完成され、人々の内に平和が実現しますようにという祈りです。そしてその平和な御国の実現が、人の横暴な力や強引な計画によってなされるのではなく、神様のみこころのうちになされますようにと祈るのです。

次に人のために二つのことを祈ります。日毎の必要が満たされること。霊的な必要(罪の赦しと悪からの守り)が満たされることです。この場合に、自分だけのために祈ることのないように注意しましょう。神様は「私たち」という代名詞を用いて祈りなさいと教えられました。つまり、自分の物質的なまた霊的な必要を祈る時に、他の多くの兄弟姉妹の顔を思い出しながら、また彼ら/彼女らの必要をも覚えながら祈ることが大切なのです。

そして最後に、主がすべてでありすべてであるという信仰を告白し、真実にそう祈ることを覚えて、アーメンと閉じます。アーメンは「真実にそのとおりです」という同意することばであり、ヘブル語、ギリシャ語、英語と万国共通です。

【主の祈り<文語訳>】

(呼びかけ)
天にまします我らの父よ
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。

(神を賛美する3つの祈り)
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

(人の必要のための3つの祈り)
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

(信仰宣言)
国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

クリスチャンになるということ

D-01. クリスチャンになるとはどういうことでしょうか?

クリスチャンになることは、聖書では様々な言い方がなされています。
一つは、キリストの十字架の罪の赦しを受け入れて、神様と和解することです。
二つ目には、神様と和解して神様の子とされることです。三つ目には神様の子となるのですから、神様の家族(教会)に加えられることです。

また罪の赦しを受け入れるというのは、自身の過ちを認めてこそできるものですから、当然、そこに悔い改めがあり、生き方が新しくされる結果も生じます。たとえて言えば、これまでの自分史を前編として締めくくり、新しい後編の自分史を書き始めるようなものです。

このようにクリスチャンになることについては、色々な言い方がなされています。けれども「よい子になる」という言い方だけはなされていません。
多くの人は、どういうわけでしょうか、クリスチャンを聖人のイメージでとらえる傾向にあり、クリスチャンになることは「よい人になる」ことだと考えているところがあるようです。
クリスチャンになると悪いことはできない。お酒も止めなければならない、悪いことばや下品な冗談を口にしてはいけないなどと、禁欲的、ストイックなイメージを持っていたりします。
そういう人がいざクリスチャンになり、そのような先入観で、信仰生活に入りますと、とても堅苦しい信仰生活を始めてしまうことになります。

けれども、クリスチャンになるというのは、いい子になることでも、ぶりっ子になることでもありません。
クリスチャンになるというのは、キリストの十字架の痛みがわかるようになることです。
キリストが十字架で苦しまれた、その苦しみが私たちの罪の赦しのためである。私たちが神様と和解するための尊い命の犠牲である。
そういうことのために、どんなにキリストが痛まれたか、痛みを持って、私たちを神様のもとに引き戻そうと愛してくださったか、痛むほどに愛されたキリストの愛がわかるようになるということです。

そしてキリストの自分に対するその深い愛がわかりますと、やはり私たちもその愛にこたえたいと思うようになるものではないでしょうか。
たっぷりと愛された者は、言われなくても人を愛するようになるものです。
十分与えられていることがわかった者は、自発的に分かち合うことを喜びとするようになるものです。

つまりクリスチャンになるというのは、キリストに愛されたことがわかって、心が変わらざるを得なかったということです。
心が変われば、行いも変わります。そして愛されていることがわかるということの程度も、信仰生活が積み重ねられるにつれてますます深まっていくことになるでしょう。
キリストの愛がわかればわかるほどに、人を愛する者と変えられていきます。繰り返します。
クリスチャンになるというのは、キリストの愛がわかるようになることなのです。

D-02. クリスチャンが兄弟姉妹と呼び合うのはどうしてでしょうか?

イエス様によって罪を赦された人は、神様と共に生きる人生へと招かれます。そこで神様は、ただ単に見ず知らずの同伴者としてではなく、私たちを愛する親として人生に付き添われるのです。

そういうわけで、イエス様は神様を父と呼ぶように教えられました。また、イエス様を信じる者は皆、兄弟姉妹であると教えられました。
クリスチャンになったとしても、現実的に血のつながった家族がおりますし、その家族が大切であることに変わりはありません。けれども、さらに目に見えない神の家族にも加えられています。その信仰の証として、兄弟姉妹ということばを互いに交わすのです。

しかし、実際の兄弟姉妹の間でも、必ずしも兄弟・姉妹という呼び方はしませんし、そういう言い方はなかなか慣れないこともあるでしょう。ですから、無理にそのような言い方をする必要もありません。大切なのは、兄弟姉妹として教会の仲間を見てゆく意識を、持ち続けることです。

また兄弟に、兄弟喧嘩はつきもの。親に仲良くすることを教えられながら、お互いに受け入れ合うことを学び、人間的に成長します。同じことは、クリスチャンの兄弟姉妹間にも言えます。本来他人であり、全く考え方も違う者同志には、しばしば摩擦があります。けれども、神様に与えられた兄弟姉妹であるという意識をしっかり持ち、その愛の中に生きる時に、計り知れない祝福をいただくことになります。

クイズ:兄弟姉妹間に求められる愛は次のどれでしょう。

1.エロスの愛(奪い取る愛)
2.フィレオーの愛(ギブアンドテイクの愛)
3.アガペーの愛(与え尽くす愛)

答え:3番

エロスの愛は自己中心な愛。エロスの愛の強い人は、受け入れて欲しい、認めて欲しい、そういう心で人と接します。
フィレオーの愛は、私たちが日常経験している愛です。親切にしてくれるから親切にする。よくしてくれるからよくする。こういう心で人と接します。だから親切にしてくれない人には、親切にしない。悪いことをする人には、背を向けるということになります。だれでもしていることです。
ところが3番のアガペーの愛は、神の愛とも訳されます。十字架に示された神の愛です。敵をも愛する愛です。こういう愛は、信仰によって神様にいただくものなのです。 

D-03. どのようにキリスト教理解を深めたらよいでしょうか?

まずは、牧師に相談してください。相談しているうちに、どの点について理解を深めたらよいのかということがわかるはずです。

ともあれ聖書信仰は、元来イスラエル文化の中で育まれてきたものです。そのような文化背景のない日本人が、それを正しく理解し自身のものとするためには、ある程度学的な努力も必要となるわけです。信仰は学問によって達成されるものではありませんが、やはり、教育レベルが高く、聖書に関するいろいろな書物(よいものも悪いものも含めて)や聖書に基づく新興宗教が氾濫している日本の社会状況では、キリスト教信仰を知的に把握し理解を深めておくことも大切です。また、神様を信じていない方々が、聞きかじりで質問してくる事柄についても、的確に答えるためにも大切です。

以下、キリスト教理解のための入門書を推薦することにしましょう。また、これらの本は、教会でも注文を受け付けます。

①ヘンリエッタ・ミアーズ『イラスト早わかり聖書ガイドブック』
(フォレスト・ブックス)1,500円
②鹿嶋春平太『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)1,200円
③山本七平『聖書の常識』(文藝春秋)2,095円
④大木英夫『主の祈りキリスト入門』(聖学院大学出版会)1,900円

D-04. キリスト教の書籍を購入できる場所がありますでしょうか?

なお、ご自分で色々と入門書を探してみたい方は、次のキリスト教書店を訪れてみるとよいでしょう。ただし、著者によって色々な立場(カトリックなど)がありますので、ぜひ、牧師にご相談ください。

●お茶の水クリスチャンセンター内CLCキリスト教書店
JRお茶の水駅下車、お茶の水橋出口から徒歩3分

●銀座教文館
丸の内線銀座駅下車、徒歩5分

●新宿オアシス
JR新宿駅下車、南口から徒歩3分

D-05. お酒が大好きなんですが、止めなくてははなりませんか?

信仰において大切なのは心です。止めようと決意する時は、心から止めようと思えることが大切です。また自然に止められることが大切です。キリスト教信仰は禁欲主義ではありません。自分で一生懸命自分の行動をコントロールすることよりも、神様の力によって、心を変えていただき、飲酒せずいても平気だし、自然だと思えることが大切です。

日本社会のお付き合いを考えますと、お酒を断つというのは、大変不都合なことのように思われることもあるでしょう。けれども、どんな社会もそうですが、長い時間をかけてお付き合いしているうちに、その人柄の良さが分かってくると、お酒を飲む飲まないなどあまり問題にされないものです。人柄の良さと信仰の純粋さを分かってもらえるようになりたいものです。

聖書には、「酒によってはいけません。むしろ御霊に満たされなさい」と勧められています。酔っぱらうのであるなら、お酒ではなくて、聖霊に酔いなさいというわけです。これは大切な点です。お酒に満たされた人は、上機嫌になり、自分を楽しませますが、聖霊に満たされた人は、人に生きる力、人を変える力を持つからです。クリスチャンになりますと、お酒の楽しさよりも、聖霊の祝福に与る楽しさを味わうので、それを一層求めるものなのです。

D-06. たばこが好きなんですが、止めなくてはなりませんか?

これもお酒と同じように、考えてください。

クリスチャンと仏事について

F-01. お守りや仏壇がありますがどのようにすればよいでしょう?

この天地に、神様はただおひとりです。ですから、唯一の神様の守りと導きを信じる以上、もはやお守りや仏壇は必要がありません。ですから、初代教会のクリスチャンたちが、信仰を持った後に、そのようなものを集め、全て燃やしてしまったように、捨て去っても構わないのです。

けれども、何か特別な意味があり、捨て去ることに、後ろめたさや心のわだかまりを覚えるのであれば、たとえばお守り類は、箱に入れてしまっておいてもよいと思います。そして自身の思いを率直に語り、祈ってもらうことが大切です。信仰が深まって、目に見えない天地創造の神様に守られ、導かれていることを覚えるようになれば、自然にそうしたものからの呪縛からも離れられることでしょう。決して心に偽って律法主義的になってはいけません。

また、たとえば仏壇が自分だけのものではなく、まだ神様を信じていない家族のものであるという場合、仏壇を捨て去るという言動それ自体が、家族の中で争いを起こす原因となります。クリスチャンはどんな争いをも避ける慎重な態度を持つべきです。神様を信じていない人にとって、それらは大変意味のあるものですし、粗末に扱うとたたりがあるのではないかと色々と呪縛的な思いもありますから、そのままにしておくのも一つの手です。そして、自身は天地に唯一の神様を信じるクリスチャンであるがゆえに、そのような形式的な偶像崇拝には関わらないことを、穏やかな話し合いの中でよくよく理解してもらうことが大切です。決して自身の確信を押しつけないことです。たとえ間違っていると思われていることであっても、相手の気持ちを尊重することも愛の業であると言えます。そして愛を持って真理を伝えるところに、家族の救いも実現するはずなのです。

F-02. お墓参りはどのようにすればよいでしょう?

クリスチャンであるからといって、仏事の全てを拒否するわけには行きません。仏事への参加を躊躇われるとしても、故人を大切に偲ぶ思いから、出来ることはいくらでもあるはずです。たとえば、毎月お墓を訪れ、掃除し、花を生け、水をかけて汚れを落とすことは大切な務めです。これはお墓参りではありませんから、その場で手を合わせて祈るということをクリスチャンはいたしませんけれども、お墓を綺麗にすることは、故人を大切にする証の表れです。

また、クリスチャンの場合、常に目に見えぬものを大切にするのが大原則です。ですから、故人が残した目に見えぬ遺産。心の遺産を継承してゆくのが、最も故人を大切にすることと言えるでしょう。つまり、故人の生き方を大切に思い、それに倣い生きることが、仏壇に膳を備え、線香をあげるという形よりも、故人を大切にすることと言えるのです。

F-03. お焼香はできないと聞きましたが….。

クリスチャンがお焼香をしないのは、それが偶像礼拝の意味を持つと考えられているからです。お焼香は、「内下清浄にして諸仏諸菩薩の来臨を仰ぐために、「仏の使い」といわれる薫香をくゆらせて自ら身心ともに浄化する作法」であると言われます。また、「静かに芳香を放って、立ちのぼる香煙に乗じて仏菩薩は顕れたもうもの(浄土宗檀信徒のしおり)」とされています。
ですから、あらかじめ喪主なり、関係者なりに、故人を大切にする思いに変わりはないものの、クリスチャンである信仰の故に、仏教の慣習に倣うことができないことを丁重に伝えておく方法があります。
しかし、これを日本の文化・習俗と見て、特に問題にせずに行うということもできます。キリスト教の信仰とかち合う問題ではない、ということです。けれども、その場合には、そのことで、色々と悩む、キリスト者の兄弟姉妹に対する配慮も必要です。

お焼香しないことで、角が立つことがあるかもしれませんが、お焼香をすることで別の意味で角が立つ場合もあります。その時々に、祈りながら対処してください。日本の風土でキリスト教信仰を持つことの難しさですが、天地万物を支配し、人の心に働かれる神様は、必ずやお焼香をしないことの弁明や証の機会を与えてくださるものです。またお焼香をするという場合についても、これが単なる日本の文化・習俗であるという兄弟姉妹のよき理解の中で行われる機会を与えてくださることでしょう。神様の導きと助けに信頼することです。

クリスチャンは先祖を大切にします!
先祖の生き方を大切にするのです!
ですから、人は、財産よりも何よりも 「生き方」を残さなくてはなりません!