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第5回 なぜショート動画は「もう一つ」で止められないのだろう?

― ニュースの向こう側を、聖書と一緒に考える ―

夜、ベッドに入って「あと少しだけ」とスマホでショート動画を開く。1本見終わると、指を動かす前に、もう次の動画が始まっている。気づけば、10分のつもりが30分、1時間……。テスト前の「ちょっと休憩」のつもりが、夜中になっていた。そんな経験は、誰にでもあるんじゃないかな。

これを「意志が弱いから」で片づけるのは、少し違う。もちろん、最後にスマホを閉じるかどうかを決めるのは自分自身だ。でもショート動画には、人間の脳が反応しやすい仕組みが、しっかり組み込まれている。今日はその仕組みを、心理学と聖書の両方から一緒に見てみよう。

「次はアタリかも」が脳を離さない

心理学の世界では、こんな実験がある。ボタンを押すとエサが出る仕組みを2種類用意する。1つは「10回押すと必ずエサが出る」パターン。もう1つは「平均10回で出るが、3回で出ることもあれば、20回かかることもある」というランダムなパターンだ。どちらのほうが、熱心にボタンを押し続けると思う?

答えは後者。心理学では、これを「変動比率強化」と呼ぶ。行動科学者スキナーの実験以来、「いつ報酬がもらえるか分からない」仕組みは、どの強化パターンよりも行動をやめにくくすることが分かっている。実はこれ、スロットマシンと同じ仕組みなんだ。

ショート動画も同じような感じ。すべての動画が面白いわけではない。でも、ときどき自分の好みにぴったり合う「アタリ」動画が流れてくる。しかも、それがいつ出てくるかは予測できない。だからこそ「次こそは」という気持ちが生まれ、指が止まらなくなる。

ドーパミンは「快楽物質」じゃない?

「ドーパミンが出るから気持ちよくて止められないんでしょ?」と思う人もいるかもしれない。確かにそんなところもあるかもしれない。ケンブリッジ大学の神経科学者ウォルフラム・シュルツの研究によると、ドーパミンが強く反応するのは「報酬をもらった瞬間」よりも、「予想より良いことが起きるかも」と期待したり、予測したりするタイミングだという。

つまり脳は、「楽しい!」という感覚よりも、「次に何か来るかも……確かめたい」という気持ちを強く生み出している。次の内容が分からないからこそ、脳はもっと確かめたくなる。これが、ショート動画を閉じられない大きな理由の一つだ。

止まるための「区切り」がそもそもない

本を読むときはページをめくり、映画を見るときはエンドロールが流れる。人は、そうした「区切り」があるから、「ここでやめよう」と判断できる。でもショート動画には、自動再生と無限スクロールがある。次の動画は、ページをめくる前に始まってしまう。

アメリカ・ベイラー大学の研究チームがTikTok・Instagram Reels・YouTube Shortsを比較した調査では、「使いやすさ」「おすすめの正確さ」「予想外の面白さ」の3つが組み合わさることで、利用者の関わりが深まり、依存的な使い方につながることが分かっている。

イギリスの5Rights財団の調査は、さらにリアル。子ども21人のスマホ画面を実際に記録したところ、1日平均708本もの動画を視聴していた。そのうち約半数は、5秒以内に次の動画へ飛ばされていたという。「見た」というより、「流された」に近い感覚かな。

笑い、驚き、怒り、感動、かわいさ――短い時間で感情が次々に変わることも、注意を引きつけ続ける仕掛けの一つだ。その結果、静かな時間や、すぐには面白さが分からない勉強や読書を、以前より「退屈」に感じやすくなることもあると言われている。

心は刺激だけで満たされるのか

だからといって、ショート動画そのものが「悪い」というわけではない。笑えたり、新しい知識に出会えたり、誰かの考えを知るきっかけになったりもする。大事なのは、見終わったあとに何が残っているかだ。

楽しさや学びが残っているだろうか。それとも、時間を失ったようなモヤモヤや、満たされない感覚が残っているだろうか。

こう考えるとき、いつも思い出す聖書の言葉がある。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。」――新約聖書「コリント人への第一の手紙」6章12節の言葉だ。

「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。(コリントの信徒への手紙一 6章12節)

パウロがここで言いたいのは、「やってもいいか、悪いか」という話だけではない。「それに心を支配されていないか」という、もう一段深い問いだ。ショート動画も同じだ。見ること自体が悪いのではなく、「自分がコントロールしているのか、それとも動画にコントロールされているのか」がポイントになる。

聖書は、人間を「刺激に反応するだけの存在」として見ていない。私たちは立ち止まり、考え、選び、誰かを大切に思うことができる存在だ。友だちとゆっくり話すこと、外を歩くこと、祈ること、一つのことにじっくり向き合うこと。そうした静けさの中でしか育たないものが、確かにある。

自分に問いかけてみよう。

私は今、これを選んで見ているのだろうか。
それとも、見せられるままに流されているのだろうか。

画面を閉じることは、楽しみを手放すことではない。自分の時間と心を、もう一度自分の手に取り戻すことだ。区切りがなければ自分で作る。あえて違う予定を入れてみる。そんな小さな自分の工夫を、私自身も忘れたくないと思う。

では、また次回。パスターまこと ©Dr. Makoto   

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