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第15回 お金は何のためにあるのだろう

消費税を聖書的に考える③そして、あなたは誰の隣人になるのか

聖書は、お金そのものを悪だとは教えていません。旧約聖書には、豊かな財産を持ちながら神に従う人物も登場します。では、何が問題なのでしょうか。

イエスは、「神と富とに仕えることはできない」と語りました。ここで問われているのは、お金を持っているかどうかだけではありません。お金が道具ではなく主人になり、人の判断や生き方を支配してしまうことです。

お金は、家族を養い、学び、働き、人を助け、社会を整えるために使える便利な道具です。しかし、「もっと自分だけが得をしたい」という思いだけが強くなると、隣にいる人の苦しみが見えなくなることがあります。

税金も同じです。税は一人ひとりが働き、買い物をして負担したお金です。だから政府は無駄遣いや不正を避け、使い道を説明しなければなりません。同時に、そのお金は、個人だけでは支えきれない医療、教育、防災、福祉などに用いることができます。

聖書的な関心は、「増税か減税か」という一つの答えに直結するものではありません。むしろ、「集め方は公正か」「弱い人が守られているか」「権力は正しく用いられているか」「共同体の将来を支えているか」と問い続けます。

ここで「良きサマリア人」のたとえを思い出してみましょう。強盗に襲われた人が道に倒れていました。何人かは通り過ぎましたが、サマリア人は立ち止まり、傷の手当てをし、安全な場所へ運び、その費用も負担しました。

イエスの問いは、「助ける対象をどこまで狭く定義できるか」ではなく、「倒れている人に対して、あなたは隣人として行動したか」という方向へ私たちを向けます。

消費税、社会保障、政治を考えることは、数字だけを計算することではありません。どのような社会を望むのか。弱い人をどう支えるのか。未来の世代に何を残すのか。そして、自分はそのために何を分かち合えるのかを考えることです。

「私の隣人は誰か」だけでなく、「私は誰の隣人になるのか」。この問いを持ち続けることが、聖書の観点から税と社会を考える出発点なのです。

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